SAY

不定期連載。指導員インタビュー。


OHTAKE Risa Said...

熊野に帰る。 迷いはなかった。―――


そう話すのは今年学童二年目を迎える大竹里沙。

小中高と熊野で過ごし、進学で名古屋へ。先の方向性もそして正社員への内定さえも決まっていたというが。


熊野を離れて見えること、感じたこと。一言では表せないいろいろな衝動がもう一度熊野へ突き動かした。


熊野へ帰り、職探し。誰かを世話することはきらいじゃなかったし、子どもたちと楽しく過ごせるのかも。こうして学童での生活が始まる。


子どもたちと向き合う学童の仕事。中には思い描いていたものとギャップが大きいと感じる人もいるようだが、大竹は「ギャップはあったけど、楽しい方が大きい」とさらっと話す。


実際子どもたちから「なんで怒らんの?」と聞かれることもあるという。大竹曰く「イラッとすることは時々あるけどそれ以上の事はない」とのこと。器の大きさが求められる仕事なのだろう。


子どもたちのやんちゃもさらっと受け止められる大竹にも苦手なことはある。人前に出ることだ。それまで自分から進んで人前に出ることは極力避けてきたというが、様々なイベントがある学童でそうはいかない。昨年のクリスマス会では初担当を任され、かなり緊張しながらもやりきった。


イラッとすることも、楽しいことも、いろいろありながらもバタバタのうちに過ぎていった初めての年。昨年の井戸事業所から今年はみはまっ子へ異動となった。また新たな場所で子どもたちとの生活が始まっているが、いまでも井戸の子どもたちは日誌に大竹のことを書いてくれているという。井戸担当の指導員から「書いてくれてるよ」と渡される日誌を見ることがなによりも嬉しいという。


子どもたちとの信頼を築く仕事。

昨日も、今日も、これからも。

 

大竹里沙(みはまっ子学童クラブ 指導員)

NISHIYAMA Risa Said...

このまちで育った。これからもここで生きていく―――

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YASHIKI Akari said...

 屋敷明里(現:みはま児童クラブ 所長)―――

 

御浜で生まれ育ち、大学は愛知へ。卒業後に戻った地元熊野で、当時立ち上げ間もない くまのっ子へ。

 

実はもともと学童の分野を目指していた…わけではなく、さらには地元へ戻る事すら重なった偶然。

きっとこれも何かの縁だったのかな、と語る今。

 

学校のような”指導要領”のない学童。ましてや立ち上げ間もない、全てが手探りの日々。

指導員みんなで毎日遅くまで話し合ったり、子ども達とも相談しながら”くまのっ子”を積み上げていきました。

例えば56クラブ。これも当時の子ども達との話し合いから始まりました。全ての事業所から金山事業所に

”会議”に集まり、自分たちで考えながらイベントを企画していきます。基本は子どもたち主導になるように。


学童の良さは「いろいろできる、考えられる」こと。イベントだけでなく、日々の運営に関しても子ども達と

対話をしながらつくりあげていくのが学童。また、いつも1年生から6年生の子ども達が一緒に過ごしています。

常に”お兄ちゃん・お姉ちゃん”の姿を目にすることで「自分もああなりたい」といった期待感やあこがれの醸成。

反対に家では一人っ子の子も学童では年下の子をまとめたり面倒を見ることでリーダーシップが生まれています。

 

単に預かるだけでないのがくまのっ子・みはまっ子。”くまの”の地を活かした活動も大切にしている部分。

今では恒例となったキャンプやお泊まり会も地元の施設や大自然を思い切り楽しめる活動の一つです。

他にも畑作りやご飯づくりなど日々のちょっとした事など意外に”やれそうでやれない体験”だったりして…。

 

進学や就職で大半が地元を離れてしまうこの地域の現状。

だからこそ、この地で生まれ育つ子ども達一人ひとりに少しでも”くまの”で過ごした思い出が残るよう、

また帰ってきたい、と大人になってからも心寄せてもらえるよう。

日々子ども達と向き合っています。